大判例

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福岡高等裁判所 昭和59年(ネ)194号 判決 1985年1月24日

控訴人(付帯被控訴人)(以下「控訴人」という。)

社団法人全国社会保険協会連合会

右代表者理事

鳩山威一郎

控訴人(付帯被控訴人)(以下「控訴人」という。)

高岸佑昌

右両名訴訟代理人

大石幸二

饗庭忠男

被控訴人(付帯控訴人)(以下「被控訴人」という。)

河野理一

被控訴人(付帯控訴人)(以下「被控訴人」という。)

河野宏路

右両名法定代理人親権者父兼被控訴人(付帯控訴人)

(以下「被控訴人」という。)

河野逸夫

右同親権者母兼被控訴人(付帯控訴人)(以下「被控訴人」という。)

河野京子

右四名訴訟代理人

杉光健治

山口米男

主文

本件控訴に基づき原判決中控訴人ら敗訴部分を取り消す。

被控訴人らの請求を棄却する。

本件付帯控訴を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実《省略》

理由

一当裁判所は、被控訴人らの本訴請求は、いずれも理由がないのでこれを棄却すべきものと判断するが、その理由は、次のとおり改め、加えるほか、原判決理由説示のとおりであるからこれを引用する。

1  原判決二〇四頁一行目及び六行目、同二二九頁八行目の各「成功し」を「成功したとし」と改める。

2  原判決二三三頁五行目の「り、我国でも、」から同二三五頁八行目末尾までを「る。」と改める。

3  原判決二五八頁四行目の「光凝固法が」から同八行目の「昭和四九年度報告によつてであること」までを「昭和四八年の本件当時、未熟児網膜症の治療手段としての光凝固法、及び、その前提としての眼底検査の必要性は未だ一般的医療水準に達していなかつたこと」と改める。

4  原判決二六三頁九行目冒頭から同二六八頁二行目末尾までを次のとおり改める。すなわち「

(3)  ところで、およそ、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する医師は、その業務の性質に照らし、危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるものであり、それゆえ、自己の専門及びその隣接分野において、単に過去習得したところにとどまることなく、日進月歩する医療技術の修得につとめ、高度の臨床医学知識に基づき最善を尽さなければならない義務を負つていること、そして、医師に、もし自ら担当している患者に、自己の専門に隣接する分野で重大な疾病の発生が予想され、自らその予防や治療を行い得ない場合、患者若しくは保護者に対し、右疾病発症の危険性、疾病の内容、治療法等を説明し、その専門医を招いて診療を受けさせるか、転医をさせて、適切な診療を受け得る機会を与える義務があることはいうまでもない。

もつとも、右医師の診療における注意義務を判断する基準となるべきものは、当該診療行為当時のいわゆる臨床医学の実践における一般的医療水準に基づくものであることが必要であるとともに、それをもつて足りるものであり、一部の先進研究者による実験的研究結果が学会・専門誌等で発表されていても、未だそれについての質疑・追試等による十分な臨床成績が明確でなく、またその学問的な診断・治療基準が客観化されていても、一般臨床医に具体的可能性のある治療法として定着していないようなものについては、これを採用しなかつたからといつて、右注意義務違反といえないことはいうまでもなく(逆に、そのような先進的実験的医療技術を応用することが問責されることもあり得る。)、また、医療行為の内容は、当該医師の置かれている医療環境、すなわち地域的、地理的条件や、各種研究機関を有する大学病院、国公立の総合病院、あるいは個人病院、診療所、一般個人開業医など医師の専門性、医療機関の性質、規模等で差異があるので、これら医療環境の具体的諸事情をも総合考慮して、右の一般的医療水準、ひいては右注意義務違反の有無を決するのが相当と考えられる。

(4)  そこで、控訴人高岸が被控訴人理一、同宏路の診療を担当した昭和四八年三月ないし六月当時の未熟児網膜症に関する一般的医療水準につき検討する。

ア  まず、<証拠>によれば、本件医療行為当時である昭和四八年三月ないし六月頃までに表明された末熟児網膜症に関する医学的諸見解のうち、本件訴訟に証拠として提出されているものは原判決別紙五記載のとおりであること、これらを眼科関係と小児科関係とに分け、さらに実質的な重複を避けつつ、重要なものにつきその要旨を説明すれば次のとおりである。」と改める。

5  原判決三二六頁二行目冒頭から同三六一頁五行目の「その余を棄却し、」までを次のとおり改める。すなわち「

イ  次に、<証拠>によれば、昭和四八年三月ないし六月頃の本件医療行為の後から現在(本件当審口頭弁論終結時)までに表明された未熟児網膜症に関する医学的諸見解のうち、本件訴訟に証拠として提出されている諸資料の概要は次のとおりである。

a 昭和四九年五月、日本眼科紀要二五巻五号「地域医療における未熟児網膜症発見率向上への試み」(天理病院鶴岡祥彦・永田誠)は「……われわれの体験では、未熟児の眼科的管理をはじめた眼科医が光凝固の適応をほぼ判断しうるようになるには、指導者のもとで少くとも半年ないし一年間の経験が必要であり、このような教育は光凝固装置を設備した病院で経験者とともに眼底を検査することに始まり、自然治癒例と進行重症例を判別する訓練、光凝固に最適な時期の判定、光凝固実技の訓練などが実際の症例についてマン・ツー・マン方式で行なわれなければならない。実際問題として現在、このような教育の可能な施設は全国でごく少数に過ぎないので、現時点では未熟児網膜症に関して実際の診断・治療能力を持つている眼科医の数は決して充分とはいえず、今後この数を増やすべく長期にわたる努力が必要である。……他府県より来院した児の中には国公立病院に収容されていて重症瘢痕期病変にまで進行した例や、光凝固が不適当に行われていたと思える例もあり、未熟児網膜症による失明あるいは弱視の防止を地域的、あるいは全国的規模で行うにはなお困難な問題が山積していることを熟知させられた。」としている。

b 昭和五〇年六月、日本眼科紀要二六巻六号「未熟児網膜症の凝固方法」(菅謙次他一名)の中で、昭和四三年から永田誠医師のいる天理病院に勤務していて昭和四九年大阪市北野病院眼科に転じた菅医師その他は、昭和四九年より後に試みた五症例を発表して、凝固時期につき、各論文(永田医師も含む)ともオーエンス分類三期の初期か、三期に移行すると思われる二期の後期に実施すべきであるという意見を述べているが、凝固部位について報告者が一致していないこと、その各部位は、A新生血管、B境界線、C境界線近くの無血管帯、D境界線から離れた無血管帯、とされており、また、凝固の範囲においても、(1)境界線の存するすべての部位を凝固する、(2)バラバラと散発的に凝固する、(3)ところどころ斑点状に凝固する、など分れていて定まつていないことを前提にして、五症例中、一眼のみオーエンス三期に、その余はオーエンス二期にそれぞれ凝固したが結局、一眼のみ有効であり、それ以外は全て無効となつたものであり、その結果から「凝固すべき部位は境界線に接した無血管帯で、ここを二ないし三列にわたつて凝固する。」という治療基準を示している。

c 昭和五一年一月、日本眼科学会雑誌八〇巻一号「未熱児網膜症第Ⅱ型(激症型)の初期像及び臨症経過について」(国立小児病院眼科森実秀子)中で、森実医師は、昭和四〇年から一〇年間の国立小児病院で遭遇したⅡ型の初期、病像とその臨床経過を述べ「未熟児網膜症の治療の焦点は、実はこの激症型、第Ⅱ型にあるべきものと考えられるが、この病型に関しては、診断面にも治療面にも未解決の問題が山積している。特に、診断面については諸家の見解が未だ一致していない点がある。一九七五年度厚生省特別研究班の第一回報告書のなかにおいても第Ⅱ型としての定義は比較的あいまいにとどめられている。……一九七四年大島らは「急激に進行増悪する未熟児網膜症」または「激症型」と称し、主として治療の時期選定のために早期に診断すべきこと、また、通常のものとは臨床像が異なることを強調した。一九七四年著者は、この群を「極めて幼若な型」と仮に称し、光凝固治療の効果を論ずる上で、自然治癒傾向のある周辺型(第Ⅰ型)とは明らかに区別して論ずる必要のあることを強調した。一九七五年厚生省の未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究班は、これを第Ⅱ型と呼び次のように説明している。

『……主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるがヘイジイのためにこの血管帯が不明瞭なことが多い……』

しかしながら、この説明は漠然とした表現であつて、いまだ第Ⅱ型の概念は定まらない。また、これまでの諸家の報告においてもその病型のとらえ方が観察者により異なり、いわゆる混合型が第Ⅱ型として同等に論じられている傾向がある……」としている。

d 昭和五一年九月、臨床生理六巻五号「酸素療法と未熟児網膜症」(国立小児病院新生児科内藤達男)は、昭和四六年ないし昭和五〇年の国立小児病院の症例を掲げ、これらがいずれも重症未熟児網膜症例(Ⅱ型)であり、一名は後に死亡しているので六例であるところ、そのうち四名は光凝固を三回ないし七回行つたが失明し、一例は片眼失明であり、軽快は一例にすぎない、としている。

e 昭和五一年一一月日眼会誌八〇巻一一号「宿題報告(Ⅲ)未熟児網膜症に関する諸問題」(永田誠)は、事実欄二2(一)(1)の主張事実のとおりのほか「過去九年余の期間私達はほぼ変らぬ光凝固適応基準を以て未熟児網膜症の治療を行つてきた。治療を始めた初期段階では個々の症例における活動期病変の進行の激烈さの程度によつて治療適応時期を主観的に判断して決定していたが、病歴をひもといて再評価を行つてみると混合型網膜症には比較的早期に、Ⅰ型網膜症には三期中期とほぼ適正な時期に治療を行つていたことに今となつてひそかに安堵感を覚えている。過剰治療への反省といましめは九年前から片時も私達の脳裡から離れたことはなかつたが、Ⅰ型網膜症に関しては一度程度の瘢痕で治癒する可能性のある症例にもかなり光凝固を行つてきたと反省される。しかし乍ら一度PHCの光凝固治療例が殆んど正常な視機能を保持し、その周辺部網膜には一度の自然治癒瘢痕症例に見られるような変性萎縮などを認めないことは私達を元気づけてくれる材料であり、一度の軽症瘢痕といえども網膜剥離などの後期合併症に関しては決して安全とは云えないことを考慮しながら、Ⅰ型網膜症における治療の妥当性についてなお今後長期の経過観察を続けてゆく必要があろう。

失明の脅威に最も強くさらされているⅡ型網膜症はまだ幾多の問題をかかえてはいるが、この症型こそは今後の研究の進展によつて予防できる可能性が強く、光凝固法の洗練と相俟つて未熟児網膜症による視機能障害根絶への見通しは決して暗いものではない。

……未熟児網膜症の光凝固による治療はその最初から小児の失明という劇的かつ深刻な事態と直接関連していた為に、これに対する社会要請が先行し、その結果として試行、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認、治療法としての確立とその教育普及という医療の常道を踏まず、直接普及段階に入り、現在では不必要な軽症例にまで乱用される傾向があるのではないかとの危惧が生れている。このような事態を招いた責任の一半は筆者にあると深く反省しているが、今回の報告が未熟児網膜症の治療を正常な軌道に戻すことにいささかでも役立ち得れば幸いである。」としている。

f 昭和五一年一二月、「産婦人科シリーズ・未熟児網膜症のすべて・われわれの経験した未熟児網膜症と産科的因子」(前賛育会病院産婦人科中嶋唯夫)は、ワシントン大学病院未熟児センターのデータは、一九六〇年ないし一九六七年まで、日赤産院のデータは昭和四三年ないし昭和四七年(一九六八年ないし一九七二年)までで、いずれも光凝固を全く行つていない次のデータを掲げている。

g 昭和五一年一二月、「産婦人科シリーズ・未熟児網膜症のすべて・未熟児網膜症の治療経過(光凝固)」(永田誠)は「……しかし現実に社会問題となつている失明ないし弱視発生を最低限に抑制するためには少なくとも現時点では予防対策と平行して治療手段をも考慮せざるを得ず、その意味で光凝固治療は今後も慎重な態度で利用されるべきであると考えている。……Ⅱ型網膜症は治療を加えないで放置するとまず絶対に失明する重症例であるが、このような症例は光凝固によつても必ずしも全例治癒するとは限らない……森実の述べるようなⅡ型網膜症の特徴的所見が見られることが多いので、診断確定次第全身状態が許せば直ちに光凝固治療を開始した方がよい。……未熟児網膜症の光凝固による治療はその最初から小児の失明という劇的かつ深刻な事態と直接関連していたために、これに対する社会的要請が先行し、その結果として試行、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認、治療法としての確立とその教育普及という医療の常道を踏まず、直接普及段階にはいり、現在では不必要な軽症例にまで乱用される傾向があるのではないかとの危惧が生れている。このさい、もつとも重要なことは本症治療に直接携わる眼科医がきわめて慎重な態度で治療適応を決定し、常に過剰治療の弊に陥らぬよう反省することであると思う。一方光凝固の真に必要な症例にはもつとも適切な時期に必要にして十分な治療を正確果断に施すことができるよう常に本症の診断治療技術の向上を計ることは現在においてわれわれ眼科医に課されたつとめである。」としている。

h 昭和五一年一二月、「産婦人科シリーズ・未熟児網膜症のすべて・未熟児網膜症の治療経過(冷凍凝固)」(東北公済病院眼科山下由紀子)は「冷凍手術の場合、症状がかなり進行して、網膜に浮腫が強い場合でも凝固が可能であり、これは活動期三期の後期にいたつても治癒せしめうることに通じる。活動期四期の場合でも、剥離が網膜全体に及んでいるのでなければ進行を止めることも不可能ではない。Ⅱ型のように、病巣が広範囲で増殖傾向が強い場合もかなり有効に作用するものと思われる。また、一個の凝固斑が大きいので、病巣の範囲が広い場合でも、一回の手術にさいして、一象現に三カ所程度の凝固で十分である。……今までの経験から、活動期三期の中期程度の病変に対して冷凍手術を行えば、さらに経過をみて後期で行うよりは、治癒までの期間は短く、手術効果も確かのようにみられるが、三期の中期まで進行しても、なんら治療を加えることなく自然治癒した例も多数経験している。このことからも手術時期の決定はきわめてむずかしい。また、成長期にある患児の眼に対する凝固侵襲は最小限にあるべきことはいうまでもなく、手術決定にさいしては、常にこのことを念頭におき、慎重に行うべきである。」としている。

1 昭和五二年一〇月、日本眼科学会雑誌八一巻一〇号「宿題報告・光凝固に関する諸問題」(群馬大学医学部眼科清水弘一、埼玉医大眼科野寄喜美春、愛媛大学医学部眼科坂上英)は「治療学としての光凝固を安全有効に実施するためには高度の診断技術が必要であるが、螢光眼底造影を駆使できることが光凝固にたずさわる者にとつての必要条件であることは、ここにあらためて強調するまでもない。光凝固そのものが顕微鏡手術以上の精度で行われる治療法であるだけに、疾患の診断および経過の追跡にあたつても毛細血管レベルでの観察精度が当然要求される。更にわれわれが常に留意し、自制しなければならないのは、光凝固の効果判定にあたつては、自然寛解と治療効果とを明確に分けて判断すべきであるという原則である。本来、自然治癒の傾向が強かつたり、停在性である疾患に対して光凝固を実施すれば当然のこととして高成績の治療率が得られる。よしんば不必要な侵襲であつても無害であればよいのであるが、すくなくとも有害であつてはならない。この点に関してわれわれがつよく危惧するのは未熟児網膜症の光凝固である。未熟児網膜症の眼底変化が発見されても、それが高度の視機能障害にまで進出の例はごく少なく、大部分は自然寛解をするものである。ところが、軽症の網膜症であつても、これに光凝固を行うと、耳側周辺部の浮腫混濁・白色の境界線とこれに接する網膜血管の拡張などは急速に消褪を開始し、一週間から一〇日も経過すればほとんど『治癒』した状態になる。したがつて、中心性網膜炎の場合と同様に放置しておいても時間さえかければ自然寛解する筈の疾患をより短時間で確実に治癒の状態に持ちこむといういわば『時間をかせぐ治療』法であるともみなせるものである。もし、光凝固が全く無害であれば、このような罹病期間を短縮させるだけの治療法もそれなりの価値があるのであるが、ここで成人の眼と乳児の眼とは全く別の問題があることに着目されなければならない。新生児から成人になる間に、眼球は、平均眼軸長が一七ミリメートルないし二四ミリメートルへと発育する。この際、比較的発育が完成に近い状態にある角膜や水晶体などが前眼部よりも眼球後半部の諸組織の方が発育する量が大きいのみならず、強膜・脈絡膜・網膜それぞれが平行な形が示すように、乳児期から成人に到る期間に、これら諸組織の位置関係の変動することが生理的に必要である可能性がつよい。先天性トキソプラスマ症などで、周辺部眼底に網脈絡膜瘢痕形成があるとその方向に向かう鎌状網膜剥離や黄斑偏位が起こる場合があり、眼球の発育が完了する前に光凝固の瘢痕により網膜・脈絡膜・強膜の相互間の位置関係を固定することにより、将来大きな問題の生じる可能性がつよく危惧されるのである。この問題に対する解答は、すでに治療を受けた患児らが成人になる一〇年から一五年以上経過した将来に得られるであろうが、乳児期の光凝固にはこのような、われわれには、未知の障害が起り得ることが認識されなければならない。乳児への光凝固は原則的には好ましいものではなく、未熟児網膜症による失明を免かれるための緊急避難と考えられるべきなのである。」としている。

j 昭和五四年一月、高知地裁昭和五一年(ワ)第七一、七二号事件証人調書(徳島大学布村元)中で、布村医師は、未熟児網膜症に関し昭和四五年から昭和五〇年まで二五〇例の症例の蓄積を有していたが、その自験例を踏まえ、昭和四七年に最初にⅡ型に遭遇するまでは、永田誠の見解は大した発見・構想であると考えたが、ほとんど失明に至るⅡ型に遭遇して、光凝固手技がまずかつたため失明させたのかと苦しんだり、治癒しないタイプもあるのではないかと疑つたりし、その後Ⅱ型に関する論文が出て来て安心し、一方永田誠の症例がほとんど自然治癒するⅠ型であることを知つた旨述べている。

k 昭和五五年度、日弁連特別研修叢書「法医学瑣談」(東北大学教授・日本法医学会理事赤石英)は、昭和五一年三月報告のわが国の小児科の専門病院である国立小児病院での昭和四六年一月から同五〇年六月までの追試例では六名のⅡ型の症例に対して光凝固を実施した結果、その全例が失明したという事実を指摘している。

1 一九八〇年(昭和五五年)一月・二月、眼科学研究二四巻四号(ワシントン大学ロバート・イー・カリーナ)は「血管新生の破壊を目標とした光凝固法・冷凍療法が研究されているけれども、RLFの増殖期病変に対して実証的な治療法は確立されていない。外科的治療法は、本症の合併症ことに網膜剥離の防止に有効と考えられる。RLFの相当数の症例が光凝固あるいは冷凍療法のいずれかで治療されたことが日本の文献に発表されている。これらの報告例の治療方法の有効性は修正病型分類が用いられていること、および多数例で両眼が同時に治療されていることなどのために、その評価が全体的に困難となつている。なぜならば、少くとも治療された眼のいくつかにおいては自然治癒例が含まれていると考えられるからである。治療効果を予測してこれまでに行われてきた臨床実験は、RLFに対する光凝固又は冷凍凝固療法の治療上の価値を結局は証明してはいない。これらの治療法には危険を伴うこと、本症が自然治癒傾向の強い疾患であること、およびまれにしか重篤な瘢痕症例は出現しないことなどの理由により将来この研究がなされる可能性は少ないものとなつている。増殖期のRLFに対しては確立された治療法はない。」としている。

m 昭和五五年七月、福岡高裁昭和五三年(ネ)第六六三号事件証人調書(大島健司)中で、福岡大学教授(厚生省研究班委員)大島健司も極めて早い時期から本症の診断・治療に取り組んできた医師であるが、診断治療基準について、まず、始めに、診断・治療基準が各々違つており、植村恭夫、馬嶋昭生は、大島自身と異なる独自の分類を持つており、したがつて、光凝固の治療基準、つまりいかなる時期に何を目標としてやるかということについても違いが出てきている。昭和四七年いろいろ疑問もあつたが、一応、これから始める者を対象のガイドラインというつもりで論文を発表したところ、その後、現在までのオーエンスその他内外の諸分類のいずれにも該当しないような症状が出現したため、これを昭和四八、九年に発表した。永田誠の昭和四七年の二五症例の発表時の見解は、当時、未熟児網膜症に対し関心を持ち診察・治療を行つていた医師の間では、右見解には非常に問題があり、これをそのまま受け止めてはいけないという意見が多かつた。すなわち、右症例は、厚生省の研究報告の基準では、Ⅰ型の分類で、自然治癒が非常に多い症例で、一方、Ⅱ型や混合型のように急激で必ず失明する重症な例が一例も入っておらず、光凝固を行つても治癒しないものもあるので、簡単に言つてはいけないし、一つの単独の型に分類してよいかとの疑問があつた。昭和四九年度の厚生省研究班の報告については、昭和四九年に集まり昭和五〇年に結果を発表したが、その診断・治療基準にしても合意に達せず、暖昧模糊とした表現で残したり、これからの研究で決定すべき点が多々あるという意味で、その報告内容がやつと第一歩であつたと考えており、ことにⅡ型の診断・治療基準については、自分(大島健司)と森実秀子が主体となつて研究したが、第一にⅡ型に遭遇した研究者が少なく、遭遇しても一、二例というのでは診断基準を出せるわけはなかつた、旨述べている。

n 昭和五五年(一九八〇年)産婦人科MOOK・No.九「未熟児網膜症」(植村恭夫)は「……昭和五二年度の日眼総会の光凝固に関する宿題報告においても、本症に対する光凝固はあくまでも緊急避難的なものであるとの見解が示された。……光凝固法の出現当時、網膜症を早期に発見し、早期に治療すれば、すべての症例は治癒するかのような報告がみられたが、その後、一眼を光凝固し他眼を治療せずに比較検討した結果、ほとんどの症例は最終的には正常化し、光凝固例には永久的瘢痕が残つた、という結果や、Ⅱ型に対する治療成績の不良をめぐる論議が出るなどして、その治療法にも批判が外国からも出され、本格的な再検討の時代になつた。」としている。

o 昭和五六年四月、札幌地裁昭和五三年(ワ)第五〇四号事件鑑定書(植村恭夫)は「……このように、Ⅱ型は厚生省研究班報告後、極小未熟児の生育率の向上に伴い、しだいに症例が集積され、その臨床像(検眼鏡的所見)も従来に比しより詳細に把握されるようになつてきた。これとともに、本症の特徴ともされる臨床経過の多様性もⅡ型にみられることがわかつてきた。これらの研究結果を要約すると、Ⅱ型は、(一)初期より著明な網膜血管の迂曲怒張が認められること、(二)血管帯と無血管帯をわかつ境界線は、Ⅰ型にみられるような白色・灰白色の幅をもつたいわゆる堤防状の隆起とはならず、新生血管が互いに吻合しているのがみられること、(三)この境界線の位置が赤道部より後極よりに、しかも全周にみられること、(四)急速に滲出性剥離を起こすことが検眼鏡的所見の特徴といえる。」「……いわゆるⅡ型の場合、昭和五〇年二月から四月当時どのような治療方法が適切と考えられていたか。右記の当時は、厚生省研究班の「未熟児網膜症の診断および治療基準」は公表されておらず、Ⅱ型の名称についても「ラッシュタイプ」、激症型とそれぞれ呼ばれており、その治療についての報告は、大島らの「急激に進行悪化する網膜症に対する光凝固療法(昭和四九年二月、臨床眼科28巻2号)の論文発表があるのみであり、当時の研究者でもⅡ型の治療経験をもつている者はわずかであり、Ⅰ型と異なり、いかなる治療方法が適切かについては定まつたものはなかつた。」「……現在ではどうか。厚生省研究班では、昭和四九年度にその時点の平均的治療方針について発表したが、その後Ⅱ型についての光凝固、冷凍療法の効果について論争があり、そのため有効性を証明するために、昭和五二年度より厚生省未熟児網膜症研究班によつて現在研究がすすめられているが、症例が少ないこともあり、その判定は未だ今日に至るもできていない。したがつて、いかなる治療法がⅡ型には適切かの問題は研究途上にあり、結論を出すまでには至つていないのが現況である。」(結論として)「……未熟児網膜症は、約四〇年の研究の歴史をもつものであり、その予防治療の研究の歴史をみると、その効果の判定はすべて対照試験によつて下されている。酸素療法にしても、ACTH、ステロイドホルモンの治療効果にしてもそうである。ステロイドにおいても、最初使い始めた頃は有効の報告がでたが、一群にはステロイドを投与し、他の一群には非投与で比較対照試験をした結果、無効であるとの結論がでた。光凝固、冷凍療法についても、わが国では最初は有効論が強かつたが、その後批判が出て対照試験を行う必要性が論じられ、現在研究が進められているが、未だ米国と同様、実験的段階にあつて有効性については立証されていない。」としている。

p 昭和五六年七月、日本医事新報No.二九八四号「未熟児網膜症の現況」(永田誠)は、「……最近の本症による盲児は殆んどが光凝固による治療にも拘らず失明しており、しかも視力障害以外の重複障害をきわめて高率に伴つていることは重症未熟児網膜症特にⅡ型網膜症の治療に限界があることを示し、年間、全国で推定五〇人程度の重度視覚障害児は今後も発生し続けることが予想される。」としている。

q 昭和五六年八月、臨眼三五巻八号「極小未熟児の増加と網膜症の発生・進行に関する統計的研究」(名古屋市立大学眼科馬嶋昭生外三名)中で、永田誠(天理病院)は「ご講演のとおり、オキシゲン・インデューストの未熟児網膜症が著しく減少し、本来の意味での未熟児網膜症が残つてくると治療を要する混合型、Ⅱ型網膜症への眼科医の対応がますます重要な意味をもつて参りますが、最近一部に光凝固が陶汰されてきたというような無理解からくる論説がみられることは残念なことです。重症例における治療についての演者のご見解をお聞かせ下さい。」と質問し、田中純子は「光凝固は三期中期になつてなお進行のみられる場合片眼に、Ⅱ型および混合型では診断が確定次第、両眼に行つています。したがつて、光凝固や冷凍凝固は症例によつては絶対に必要な有効な治療法であると思います。」と答え、馬嶋昭生は「……光凝固の時期については、Ⅰ型網膜症では一二五〇グラム以下のものでも七〇パーセント近くは三期初期で自然治癒している。光凝固しなくて治療するものに予防的などという意味で凝固斑を残すことは好ましくないという信念で、現在も治療を行う時期は変えていない。また、Ⅰ型網膜症で光凝固などの治療時期が遅かつたために網膜剥離を起こしたという自験例はない……」と述べている。

r 昭和五六年九月、産婦人科の実際「未熟児網膜症の現況」(植村恭夫)は「……一九六七年、永田らが光凝固療法を初めて未熟児網膜症に応用して以来、我が国では世界中においてもつとも多くの症例にこの治療法が用いられてきた。東京都心身障害者福祉センターの調査報告によると、一九六九年以前の未熟児網膜症による視覚障害児には光凝固法をうけている例は一例もない。その後、障害児の中に光凝固法を受けている例が増加し、一九七四年には約五〇パーセントに達し、現在では光凝固を受けていない例はなく、全例が治療を受けたが視覚障害児となつたものである。」「今回の……年次的発生状況の概略を把握することができた。……光凝固は、昭和四五年以降急速に普及し始め、最近では網膜症による視覚障害児の全例が光凝固、冷凍療法を受けている。障害児に限つてみると、最近ではほとんどが極小未熟児であり、光凝固あるいは冷凍療法を受けているにもかかわらず失明し、しかも重複障害のない例はほとんどないといつた状態にある。この状態にいかに対応するかが、未熟児保育に関係する分野の課題となる。未熟児網膜症の研究者達は、一部には現在重症未熟児網膜症の発症はほとんどみず、予防の可能性を示唆する報告がある。しかし、一方において依然として発症は続き、むしろⅡ型の症例の増加を警告している研究者もあり、わが国全体としてみると地域差もあつて、今後の予測がつきがたい現況にある。未熟児網膜症は、原因、病態、検査、診断、分類、治療について、国際的にさらに研究を進めようとする機運にあり、この研究に日本からも参加することになつている。」としている。

s 昭和五七年、「久留米・聖マリア病院未熟児センター失明事例(昭和四九ないし五七年)」(橋本武夫)は、昭和四九年より昭和五七年までの一〇症例(Ⅱ型・混合型等)の治療内容と転帰につき、光凝固又は冷凍凝固、若しくはその両方、硝子体手術等を実施されているが、両眼失明一例、一眼失明七例(うち一例は硝子体手術のため福岡大学付属病院へ転院・なお、他一眼も正常でないもの三例、その余の他一眼は予後不明)、硝子体手術のため福岡大学付属病院へ転院二例という結果となつた、としている。

t 昭和五七年四月、浦和地裁昭和五三年(ワ)第八〇二号事件証人調書(元国立小児病院眼科森実秀子)中で、森実医師は、「……(昭和四九年度について)ちようどその当時、光凝固の治療が出はじめたころでして、光凝固をすると治るというふうな早とちり的な情報が広がつてしまいまして、その当時光凝固をしなくても自然治癒する型というのがかなりあるわけなんですけれども、その辺が自然治癒するものと、自然治癒しないものを診断する力のあるなしにかかわらず、とにかく治療法があるそうだ。全て、それをすれば治るのではないか、という極論がかなり世の中に出まわつておりまして、当時、私ども未熟児を前からやつていた者にとつては、非常にこれは心外であると、光凝固というものをもつと大切に症例を選んで使わなければいけない。そのためには、今までの未熟児の病像をもつと分類して絞つていかなければならない。未熟児網膜症というものは、その当時、病像あるいは病型というものの解説がアメリカのオーエンスの分類にしたがつていたわけです。したがつて、光凝固の時期とか適用というもの、全てオーエンスの分類にしたがつて、学会なんかにデビューしてきているわけなんですが、どうしてもそれでは都合が悪いと、非常に経過の早い重症な型とじわじわとくる進行していく経過の緩やかな、しかも自然治癒する力のある型が二つあるんだけれどもみんながみな混乱されていると、そういうことで……。未熟児網膜症のⅠ型というのは、結局一期・二期・三期・四期というふうに期が分けられるわけです。ところがⅡ型と言いますと、とにかく経過が早いものですし、それから血管帯と無血管帯の境界部の様がⅠ型と全く違うパターンを取ります。しかしながら、Ⅱ型もやはり一期・二期・三期・四期と分類したように思うんですが、あれは非常に該当しない。しかも、どうしてもそれに折り曲げて報告しないと光凝固をみんなに理解してもらえない、ということで、分類しようとしてもどうしようもない、当てはまる引き出しがないというのが現状だつたので、これはいかんと、それからもう一つは、Ⅱ型というものを診たことのない班員で作つていたものですから、どうしても症状をじようずに集約することができなかつたということで、私どもは、たまたま光凝固というものがない時代から失明をしていくのをやむなく経過を見なければならないはめに立たされておりましたものですから、そういう過去の光凝固などの治療法がない時代の、過去の失明していく過程を全部経験していた者の記憶とか、それからその後の光凝固が出てからの症例などを全部足し合せて作つたのが、この論文(注、前記cの論文)でございます。」と述べている。

u 昭和五七年九月、小児科第二三巻第九号「未熟(児)網膜症の問題点」(日赤医療センター新生児未熟児科部長赤松洋外三名)は、昭和五一年二月より昭和五五年一一月までの八症例(Ⅱ型六例・混合型一例・Ⅰ型一例)の治療内容と転帰につき、光凝固又は冷凍凝固、若しくはその両方を実施されているが、瘢痕期病変として重症の四度(失明)は四名と一眼であり、三度が一名、一又は二度が一名、一眼が二度という結果にとどまつた、としている。

v 昭和五七年九月、日眼会誌八六巻九号「天理病院における過去一五年間の未熟児網膜症・治療成績の総括」(永田誠外二名)は「……一九六九年〔昭和四四年〕より一九八一年〔昭和五六年〕三月に至る期間光凝固治療を目的に当院に紹介された一二〇例の内容を示す。うち二一例は入院観察を続けるうちに自然治癒し、九九例に光凝固治療を行つた。このうちⅠ型網膜症は六六例、混合型二七例、Ⅱ型六例であり、三度以上の重症瘢痕を残したものⅠ型五例、混合型二例、Ⅱ型二例であつた。……一九七六年〔昭和五一年〕以降紹介治療例中の重症瘢痕例が皆無となつていることは注目すべきで、一九七八年〔昭和五三年〕以降は紹介例の絶対数も減り、二度PHC以上の瘢痕を残したものは一例もない。」「以上一五年間における未熟児網膜症活動期病変の治療成績を総括してみてまず云えることは、……最近の未熟児保育の進歩により、酸素過剰投与、呼吸管理の不適切による未熟児網膜症の発生は近年著しく減少していると推察されることで、これは光凝固目的の紹介例が昭和四九年をピークとしてその後次第に減少の傾向が見られることからも伺うことができる。しかし天理病院未熟児室保育児の成績に見られる様に一五〇〇グラム以下の極小未熟児における未熟児網膜症の発生は依然として続いていることは明らかであり、網膜血管の未熟性に起因する網膜症の発生そのものは、周産期管理が充実してもある程度の数起ると考えなければならない。また現実の問題として治療の対象となる未熟児網膜症の過半数を占めるのは、Ⅰ型網膜症、混合型網膜症である。森実の定義した極めて予後の悪い典型的なⅡ型網膜症は実際は極めて稀なものと考えられる。このようなⅡ型網膜症は、天理病院未熟児室で一五年間に一例、紹介例を含めても七例しか経験しなかつた程度のもので、恐らく出生体重一五〇〇グラム以下の極小未熟児の五パーセントを越えない程度のものと考えられる。従つて近年極小未熟児出生数の減少傾向がみられる我国で本症による失明児の実数を今後更に減少させるためには、このⅡ型網膜症対策が最重要課題であると考える。Ⅱ型網膜症発生率或いは重症度を減少させるには、周産期医療の進歩に俟つ所が大きく、重症度が少しでも減ずれば、光凝固または冷凍凝固による治療成績もそれと共に良好となると考えられる。Ⅰ型及び混合型網膜症に関して天理病院保育症例の成績に見られるように適期に適切な治療が行われたならば、後極部網膜症は、殆んど正常に保つことが可能で、現在までの治療成績を総括する限り、後極部網膜が正常であれば視力の発育も概ね良好であり、当初懸念された光凝固そのものによる機能障害は殆んど起つていないことから軽症瘢痕による弱視発生を適切な治療により未然に防止することが可能と考えられる。又当院保育児の成績を見ても治療経験を積むに従つてⅠ型網膜症の光凝固例は次第に減少しており、治療必要例の鑑別能力も向上してきているので、経験の蓄積と共に不必要な治療例は減少し、光凝固治療例の絶対数が今後増加してゆく傾向はないのではないかと考えられる。勿論未熟児セソターのような専門施設では馬嶋の指摘するように超低出生体重児の集中傾向が今後も上昇すると思われるので、そのような施設では今後治療必要例がむしろ増加してゆく可能性はある。しかし一時期重症例の集中傾向が見られた当院においても、Ⅱ型網膜症は一五年間に七例にすぎず、このうち三度PHC以上となつたのは三例五眼、完全失明例は二例であつたので、Ⅱ型網膜症といえども強力な治療によりかなりのものが有用な視力を保全することが可能であると考えられる。注目しなくてはならないことは、紹介例中三度PHC以上の重症瘢痕例の絶対数は、やはりⅠ型網膜症において最も多く、混合型、Ⅱ型は症例数が少ない関係で比較的少数であつた。これらⅠ型、混合型症例の多くのものが今後各施設における本症診断治療能力の向上によつて重症瘢痕の形成をまぬがれる可能性が大きいことは、当院保育例の成績をみれば明らかである。紹介例中に昭和五二年以降三度以上の重症瘢痕例が皆無となつていることは、このことを明瞭に物語つており、人口約一〇〇万の奈良県下において未熟児網膜症重症瘢痕による失明児をこの数年来みることがなくなつている。未熟児網膜症活動期病変に対する光凝固治療の有効性については既にわが国においては多数の追試により確認され、昭和四九年度厚生省未熟児網膜症研究班によりその診断及び治療基準が発表され、これ以後多くの施設において、この基準にもとづいて診断治療が行われるようになり、これが周産期医療の進歩とあいまつて最近五年間の本症重症瘢痕例の減少傾向となつて現れているのが現実の姿であろう。しかしながら極小未熟児の生存率は近年年を追つて上昇の傾向にあり、若し超低出生体重児の数が増加すれば、その中に本症重症例がある比率を以て発生することは当然の結果である。……又本症の自然治癒傾向を強調しすぎるあまり、これら重症例における治療を無視すれば、今回の紹介例での成績にも示されているように、やはり相当数の重症瘢痕例或いは弱視の発生をまぬがれ得ないように思われる。又自然治癒瘢痕例はそれが一ないし二度の軽症瘢痕であつても、一〇歳代に網膜周辺部、硝子体に変性を起こしているものが極めて多くみうけられ、若年層における網膜剥離症例のなかのかなりの比率を占めているように思われる。一方本院治療例で二度PHCまでの瘢痕症例の中に成長後網膜剥離を発生してきたものは一例もなく、光凝固瘢痕より周辺部の網膜に格子状変性、裂孔などを生じている例も今のところみあたらない。硝子体の変性所見も光凝固治療例の方が自然治癒瘢痕例にくらべてはるかに少ない。以上の結果は経験的事実であるが、タイム・アステッドといえる成績であり、臨床的事実として見過すことはできないと考える。」等としている。

w 昭和五七年一〇月、周産期医学一二巻一〇号「超未熟児の眼科的管理」(植村恭夫)は、昭和四八年以前の出生児の失明では、出生体重一五〇〇グラム以下が八〇パーセント、一五〇〇グラム以上が二〇パーセントあり、しかも二〇〇〇グラム以上にもみられたこと、昭和四九年以降の出生児についてみると、一五〇〇グラム以上が減り、一五〇〇グラム以下が九六パーセントを占め、そのうち一〇〇〇グラム以下の超未熟児が三五パーセントを占めていること、並びに、米国のデータと日本のデータとでは、生育率において大差はないにかかわらず、失明率において著しい差があるのであつて、一〇〇〇ないし一五〇〇グラムの群では、米国の0.5パーセントに比して0.8パーセントと高く、とりわけ、一〇〇〇グラム以下の失明率は、米国の八パーセントに対して12.5パーセントと1.5倍以上も高率であることを指摘し、「……なお、米国での失明児は光凝固を受けていないこと、日本での失明児は全員光凝固を受けていることも付記しておく……」「Ⅱ型網膜症の眼底所見については、厚生省未熟児網膜症の診断基準では不十分な点があるので、この点について研究班では次のような補足を加えることにした。まず、Ⅱ型の確定診断として赤道部より後極側の領域で、全周にわたり未発達の血管尖端領域に異物吻合および走行異常・出血などがみられる。それより周辺には広い無血管領域が存在する。網膜血管は血管帯の全域にわたり著明な蛇行怒張を示す。以上の所見を認めた場合、Ⅱ型の診断は確定的になる。進行とともに網膜血管の怒張はますます著明になり、出血・滲出性変化が強く起こり、Ⅰ型のような緩徐な段階的変化をとることなく、急速に網膜剥離へと進む。境界線形成は、Ⅰ型のごとく明瞭なものは作らないかあるいは進行が急速なこと、ヘイジイ・メディアのため確認できない。網膜剥離は、Ⅰ型が主として牽引性剥離であるのに対し、Ⅱ型は滲出性剥離が主体である。……Ⅱ型とⅠ型との間にはいずれも同一のスペクトルの上にのつているものもあり、従来の酸素を自由に使用していた時代には比較的体重の大きい児にもⅡ型・中間型がみられたが、現在のようにPaO2値でモニタリングしている時代ではⅡ型は未熟性の強い超未熟児に高率にみられるようになつている。」「Ⅰ型・Ⅱ型に限らず、未熟児網膜症に対する光凝固については米国学派はコントロール・スタディのないことから依然として批判的である。今回のROPカンファレンスにおいても冷凍療法に関してはカナダ、イスラエルよりの報告はあつたが、光凝固に関しては永田の報告だけであつた。Ⅱ型は放置すれば網膜剥離に進むことは明らかであり、わが国では、他に治療方法のない現在では光凝固を早期に行ない、可及的に網膜剥離を防ぐべきであるという意見が多くの人々に認められている。しかし、眼科医ならば誰でもできるというものでは決してない。光凝固と未熟児網膜症の両方に経験と技術を持つ眼科医が治療をすることによつて始めて成果をあげうるものである。しかも光凝固を繰り返し行う症例も多く、それでもおさまらず、硝子体手術を行うことによつて初めて目的を達する例もある。このようにかなり難治なものであることを銘記しておくべきである。したがつて、このような経験と技術をもつた眼科医のいない施設においては超未熟児を収容したら発症に備えて転送できる準備を整えておくことも必要である。厚生省、未熟児網膜症研究班においては、本年度よりⅡ型の光凝固のプロスペクティヴ・スタディを開始すべく準備中である。これによつてⅡ型の光凝固の効果が評価されることになると考えられる。……治療については未だ検討が続いている段階である。」等としている。

x 昭和五八年八月、大阪高裁昭五六年(ネ)第一二九一、一二九五号事件証人調書(永田誠)中で、永田医師は、「(片眼凝固だけをやつておいて、経過をみれば、……スタートで確実な証拠がつかめたんじゃないかという考え方は……)あります。しかし、その時に私も思つたことはそういうコントロールスタディというふうなことを頭に浮かべなかつたんです。これはその時にそういうことを知つておりましたら、やつたかも知れません。」のほか、「(それから共同研究班が四九年の共同研究班の検討が始まつた段階で焼き方がとにかく無茶苦茶多いんじゃないか、焼きすぎじゃないかということが議論されたという話は……)これも推定ですけれども、おそらく事実だと思います。(そこでは、いわゆる自然治癒することが問題ないような者も含めて焼かれておつたというような事実は……)あつたかも知れません。(で追試報告がたくさん出たわけですけれども……それぞれの追試の発表をしている人達がどういう段階でどういう焼き方をしておつたのか、それが先生〔永田〕達がおやりになつているやり方と同じかどうかという点で、そういう文献をお読みになつたことは……)いつもそんなつもりで読んでおりました。(実際は先生〔永田〕なんかと違うやり方もけつこう……)あつたと思います。(そこで先生〔永田〕達ならば凝固をしないというのも焼かれているというのもあつたんじやないでしようか。)あつたと思います。」「(……)我々のところに紹介されて来られる例で、光凝固必要と思います、という具合に診断されて送られてくる中に、全く必要のない例がかなり含まれております。そこから想像したんですけれども、これで自分のところに光凝固があれば、こんなんでやられたら困る、ということですね。」等と述べている。

ウ  さらに、<証拠>を総合すれば、次のとおり認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

a 控訴人病院低体重出生児センターの専任医師である控訴人高岸は、日本新生児学会の会員であり、昭和四五、六年頃にはすでに未熟児の眼底管理の必要性を認識していた。そして、控訴人病院に眼科がなく、眼科医がいなかつたことから、佐賀市内の開業医、新橋眼科の角田良子医師に対し、入院中からの診断のため週一回位の来診の相談を持ちかけたが、多忙であるし、未熟児の眼底検査、ことに未熟児網膜症の臨床経験がないので診断はできない、と断わられるなどして、入院中の未熟児に対する眼底検査を実現できず、そうかといつて、控訴人高岸としては、身近な所に未熟児の眼底検査ができる医師がいないのは困るし何とか勉強を始めて貰いたいという趣旨で、その後も「控訴人高岸自身が眼底を診断するよりは良いのではないか。」などとさらに頼み込んでみたものの、結局は、昭和四八年六月被控訴人理一、同宏路の眼科受診を指示した前後頃、予め印刷、準備した「低体重児眼科診察御依頼」と題する書面により、退院後、酸素投与を行つた未熟児を検診し、その全身状態を判断したうえ、収容児の何例かにつき、右角田医師に外来検診を依頼するという程度にとどまらざるを得なかつた。しかし、右角田医師も実際上未熟児網膜症の臨床経験がまつたくなく、その発生機序も正確に知らず、控訴人高岸から依頼された患者は、必ず他の大学付属病院へ再紹介するという当初からの前提で一応診察するのみで、その殆んど全部を久留米大学付属病院(なお、同付属病院では、昭和四七、八年当時、一般眼科医による眼底検査は行われていたが、未熟児の眼底検査、光凝固法などについての特別の専門家は未だ居らず、その後一〇年余を経た現在でもほぼ右同様の状態にある。)や福岡大学付属病院の眼科に再紹介していた。控訴人病院では、被控訴人理一、同宏路の失明事件後、未熟児の眼底管理を深刻に考えるようになり、昭和五〇年四月頃から、佐賀県立病院好生館の眼科医の熊野医師に出張検診を依頼し、二週間に一度の割合で低体重出生児センター収容児の眼底検査を実施する態勢を整え、同医師のため同年頃検査眼鏡を購入、備え付けた。同医師は、その後同年一一月頃まで、控訴人病院に出張して未熟児の眼底検査をしていたが、その間一、二例につき、その頃光凝固装置を備えていた県立病院好生館に搬送して、外来で光凝固法による治療を行い、控訴人高岸も見学を兼ね、これに付き添い光凝固装置を実際に初めて見た。ところが、右県立病院の眼科医が北九州方面で開業したのち、後任の眼科医がなく、控訴人病院として佐賀県当局や県医師会、九州大学、福岡大学、国立嬉野病院等に専門医の派遣ないし協力を要請したが、結局、余力がないなどの理由により実現しなかつた。そこで、控訴人病院では眼科医の診察が受けられないということを第一の理由として、従来県下から控訴人病院に依頼してきていた医師に対し、以後は引き受けられない旨を通知するとともに、同年一二月頃から、原則として生下時体重一五〇〇グラム未満の未熟児を収容せず、控訴人病院の産科で出生の一五〇〇グラム未満のものを福岡県久留米市内の聖マリア病院に転医させ、控訴人病院の低体重出生児センターで保育する一五〇〇グラム以上のものについても、生後二、三週間目から久留米大学付属病院(なお、同付属病院の状態は前示のとおりである。)に搬送して、眼底検査を行う態勢をとり、現在に至つている。そして、聖マリア病院に転医させる場合は、同病院から専用の救急自動車で未熟児の受取りに来て貰い、眼底検査のための久留米大学付属病院への搬送については、前示控訴人病院の携帯保育器により、保護者の乗用車や控訴人病院のライトバンを改造した搬送車を利用して行つている。なお、久留米大学付属病院では前示のとおり光凝固法を行わないため、問題のある症例は、さらに福岡大学付属病院へ再搬送していたが、両付属病院とも同じ診断基準でありながら、その診断結果は少なからず異なつていた。また、控訴人高岸は、現在、収容児の保護者に対し、酸素療法と未熟児網膜症との関係及び眼底検査の必要性等を説明している。そして、控訴人病院では、昭和五七年以降は週一回佐賀医科大学の眼科医の来診を受け、二五〇〇グラム以下の低体重出生児は全例(なお、前示のとおり、極小未熟児は取り扱つていない。)診察を受ける態勢であるが、光凝固を必要とした症例はない。

b 佐賀県立病院好生館は、昭和四三年三月小児科の管轄下に未熟児保育施設を設置し、当初保育器三台(三床)、現在五台(五床)になつているが、設置当初から眼科医が常駐しているときは同病院の眼科医(ただし、昭和四六年九月頃までは眼科は休診中であつたし、その後、東京で開業していた医師が眼科部長として赴任していたものの、実際に未熟児網膜症の診察がある程度でき、光凝固法治療技術を身につけた医師が来たのは、昭和五〇年四月の熊野医師が最初であつた。)、常駐していないときは九州大学付属病院(一、二度は佐賀市内の開業医に依頼したこともある。)に依頼して、断続的ではあつたが週一、二回程度眼科医の来診を受け、未熟児網膜症の検診ではなく、健康診断の一環として、一般的な眼底の異常を発見する目的で眼底検査を実施しており、右眼底検査は、原則として入院中一回と退院時に一回で、昭和五一年頃までの間、五例に異常所見があって、うち二名を上級病院である福岡大学、久留米大学各付属病院等に紹介している。なお、県立病院好生館では生下時体重一五〇〇グラム以下極小未熟児については、昭和四三年施設開設当初から、原則として久留米市内の聖マリア病院に転医させている。

c 国立佐賀病院は、昭和四三年頃未熟児保育施設を設置し、現在保育器三、四台であるが、同病院では、昭和四五年頃から、当初佐賀市内の開業医に依頼し(ただし、その開業による眼底検査は、未熟児を保育器から出して開業医の許に連れ出しても危険がない時期となつてからのものであり、しかも、光凝固法などの治療を前提とするものではなかつたのであつて、未熟児網膜症を意識したものであつたかどうか疑わしいものである。)、昭和四六年頃、国立嬉野病院の眼科医が着任後は同医師による眼底検査が実施されており、同病院の眼底検査は、生後二週間目位から入院中一、二回で、昭和五〇年頃光凝固法による治療のため、長崎大学付属病院に搬送した症例が一例ある(ただし、搬送後同付属病院では光凝固法を施行せず、自然治癒した。)。なお、国立佐賀病院でも昭和五〇年頃から重度の未熟児を前記聖マリア病院に転医させている。

d 国立嬉野病院は、昭和三四年頃未熟児保育施設を設置し、現在保育器五台であるが、同病院では昭和四六年末か昭和四七年頃から同病院の眼科医酒井忠による未熟児網膜症の診断を含む眼底検査を実施しており、同病院の眼底検査は、生後七日ないし一〇日目頃から入院中原則として週一回の割合で、昭和四八年に同医師の出身校である長崎大学付属病院に搬送して光凝固法による治療を行つた症例が二例あり、昭和四九年国立嬉野病院に光凝固装置を購入後、昭和四九年と昭和五一年に各一例同病院で光凝固法による治療を行つている。しかして、同病院では、昭和五〇年あるいは昭和五一年を境にして、それ以前は医療過誤訴訟が相次いだこともあつて早目に光凝固法を行う方針であつたが、それ以後は自然治癒例の報告が多いので、迷う多数の症例はむしろ光凝固を行わないで経過をみようという方針を採用している。なお、同病院でも昭和五三、四年頃から重度の宋熟児を前示聖マリア病院に転医させている。

e 福岡県久留米市内の聖マリア病院の新生児保育部門は、九州地方で最も進んだ施設の一つであるが、同病院では昭和四四、五年頃から未熟児の眼底検査が試みられ、昭和四七年六月、現在の専任医師が赴任した頃、すでに久留米大学付属病院の眼科医による定期的眼底管理の態勢ができていて(ただし、同付属病院は、現在でも、光凝固法の未熟児網膜症に対する効果に確信がもてないと批判的な態度を保持していることと未熟児に光凝固を施術すること自体の手技的機械的困難性もあつて光凝固法は実施していない。)、眼底検査の結果、治療を必要とする症例については当初九州大学、その後福岡大学付属病院に搬送して光凝固法を施行している(もつとも、昭和五九年九月現在、福岡大学付属病院の大島健司医師により未熟児網膜症に罹患していると診断された場合依然同付属病院で光凝固法を実施させるために搬送しているものの、光凝固法については比較的対照実験〔コントロール・スタディ〕を経ていないとの理由で〔ただし、一眼に光凝固を施し、他眼に施さなかつたところ、両眼とも治癒した症例は経験したことがある。〕その評価に疑問を抱いており、かつ、現実に転医させずに失明しなかつた症例も多々あるため、搬送したくない気持を半分持ちつつも、世論の批判や医療過誤訴訟の提起を回避するなど社会的要請に応ずる趣旨で搬送している。)。なお、聖マリア病院では、在胎三二週以前、生下体重二〇〇〇グラム以下の収容児については、退院時、保護者に未熟児網膜症の基本的事項を説明し、退院後眼底検査のため通院を指示している。

f 長崎県大村市内の国立大村病院の小児センターは、文献には、近隣の市町村や、対馬、五島等からもヘリコプターで重症の未熟児、病的新生児が入院しているが、同病院では遅くとも昭和四五年七月頃から同病院の眼科医による眼底検査を実施しており、同病院の眼底検査は、生後三週間目から週一回、未熟児及び酸素投与を受けた新生児全員を対象にし、要注意の者はさらに状況に応じて週二、三回の割合で行い、昭和四五年七月から昭和四六年七月までの間、未熟児網膜症の活動期オーエンス二、三期に至つた一〇例に光凝固法、あるいは冷凍凝固法を施行し、そのすべてを同じく瘢痕期一度以内におさえ、強い視力障害を残さないことに成功したと報告されている。

エ  以上を要するに、主として専門的研究者の医学雑誌に掲載された諸論文・未熟児網膜症訴訟における諸証言等の諸資料によれば、わが国では、昭和四〇年、慶応大学眼科より国立小児病院眼科に転じた植村恭夫が、啓蒙的に、未熟児網膜症の発生と増加傾向を指摘し、自ら未熟児の眼底管理を行いつつ、未熱児網膜症の予防対策、早期発見、早期治療態勢の確立のため、眼科医による定期的眼底検査による活動期病変の把握、眼底管理の徹底の必要性を繰り返し訴えたところ、未熟児専門医の関心が高まり、社会的関心すら持たれるようになつてきた。

昭和四三年には、天理病院眼科永田誠らが、未熟児網膜症の自然治癒傾向を考慮すればなお検討すべき点も多いとしつつも、十分な眼底管理下に適期を選定しつつ光凝固を実施すれば重症進行例に対する有効な治療手段となる可能性があると、まず、光凝固治療法を提唱した。

昭和四四年には、関西医科大学眼科塚原勇らが、眼底検査や未熟児網膜症の発症例の実態報告をした。

昭和四五年には、東北大学付属病院眼科山下由紀子らが、冷凍凝固法により治療に成功したとし、永田らが、さらに、未熟児網膜症が適切な適応と実施時期を誤まらず光凝固を加えることにより確実に治癒しえ、これによる失明を防ぎ得ると唱え、植村も、これに同調し、その必須条件としての眼底管理の普及と光凝固法のための麻酔医、産科医、小児科医、眼科医等の連携の必要性を説いたが、永田らも、右治療法の全国規模での実施については、困難な条件が存在し、その解決が本症治療の今後の問題であるとした。

昭和四六年には、永田らが、自院保育例五例、並びに他院保育例のうちすでに手術時期を失した二例を除く八例につき、それぞれ良好な治療成績を得たと光凝固法の実施例を発表し、山下由紀子らが、未熟児網膜症の瘢痕期調査の結果を報告し、植村らが、わが国の未熟児取扱施設で眼科管理が急速に普及し常例的なものになりつつあるとしつつ、現段階で未熟児網膜症による失明防止方法は光凝固法以外にはないとこれを積極的肯定的に評価するとともに、光凝固の機械が高価なため備え付けられない施設もあるため連絡・搬送による連携治療組織の確立を提唱したが、その一方で、塚原勇らが、この時点ですでに、光凝固法の重症例に対する適応性、極端未熟児の眼底観察の困難性、光凝固により生じた瘢痕の視機能への影響観察の必要性等光凝固法自体の限界にかかわる疑問点を指摘した。

昭和四七年には、永田らが、未熟児網膜症に関する治験例二五例を引用しつつ眼底検査と光凝固法の施行時期及び判定上の基準につき確信に満ちた発表をし、未熟児網膜症に対する治療方法はすでに理論的に完成したとし、名鉄病院田辺吉彦らが、二三例全部につき、兵庫県立病院田渕昭雄・竹峰久雄らが、一〇例のうち(激症型を含む)二例を除くその余の八例につき、名古屋市立大学眼科馬嶋昭生らが、一二例(二三眼)につき、国立大村病院小児センター(長崎大学)眼科本多繁昭らが、一〇例につき、光凝固法あるいは冷凍凝固法を追試した結果治癒したという例を相次いで報告し、植村・九州大学眼科大島健司らが、未熟児網膜症に対する光凝固法等につき積極的肯定的評価を維持したが、その反面、今後に残された問題として、永田らが、未熟児網膜症に対する光凝固の知識の普及と全国的規模での実行を挙げ、植村・大島健司らが、前示定期的眼底検査の施行・連携治療組織の確立の推進の必要性を唱え、植村が、急速に網膜剥離に至る激症型(ラッシュタイプ)に対する適応・適切な手術方法・適期につき、植村・田渕らが、光凝固により破壊された網膜組織の視機能への影響につき、これらが未だ研究途上にあると指摘し、ちなみに、本多繁昭らが、未熟児網膜症の危険のある症例もかなりの高率(三分の二)で自然治癒傾向のあることを示唆している。

昭和四九年には、天理病院鶴岡祥彦・永田らが、未熟児網膜症に対する光凝固の適応の診断、手技能力には特別な教育訓練が必要であるが、同年現在でも、教育訓練可能な施設は全国でも極めて少数で、右能力を有する眼科医の数は十分とはいえず、国公立病院の診断能力にさえ疑問があり、未熟児網膜症による失明あるいは弱視の防止を、地域的あるいは全国的規模で行うにはなお困難な問題が山積しているとし、前示専門的研究者による厚生省特別研究班の同年度報告では、未熟児網膜症の病態分類・活動期病変及び瘢痕期病変の各診断基準、同年時点における光凝固法等による治療の適応・治療時期についての一応の基準を示したが、上記の治療基準は、現時点における研究班員の平均的治療方針であるが、これらの治療方針が真に妥当なものか否かについては、今後の研究・検討課題であるとしている。

昭和五一年には、国立小児病院森実秀子が、Ⅰ型は自然治癒傾向があるので、未熟児網膜症治療の焦点はⅡ型にあるべきであるが、未だⅡ型の概念は定まらず、これといわゆる混合型との区別も不統一であるとし、同病院内藤達男が、Ⅱ型六例に対する追試の結果は、四例失明、一例片眼失明、一例軽快と報告し、永田が、Ⅰ型に対する過剰治療の反省とⅡ型・混合型に対する光凝固法の有効性の限界を認めつつなお同法に対する期待を示し、同法については社会的要請が先行した結果、試行、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果・副作用の確認、治療法としての確立・教育普及段階に入り、現在では不必要な軽症例にまで乱用される傾向があるとの危惧が生じている事態を認め、右事態を招来した責任の一半が自らにあると深く反省し、未熟児網膜症に対する治療法の施行に慎重さを求め、真に必要な症例に対する診断治療技術の向上に努めてこれを正常な軌道に戻さなければならないとし、東北公済病院眼科山下由紀子が、冷凍凝固法がⅡ型にも有効に作用することを推測し、その施術時期、部位、範囲を論じつつ、自然治癒する症例との関係で時期決定の困難さと成長期にある患児の眼に対する網膜破壊を伴う凝固侵襲の抑制を訴え、なお、前賛育会病院産婦人科中嶋唯夫が、米国の病院と日本の病院の各データを比較し(年度にややずれがあるが)、同程度の未熟児の生育率と未熟児網膜症発生率とが病院で同一とみられることを指摘している。

昭和五二年には、群馬大学眼科清水弘一らが、宿題報告で、自然治癒傾向のある症例への不必要な侵襲が将来障害を残す可能性を指摘し、光凝固は原則的に好ましいものではなく、他に有効な治療法が確立するまでの緊急避難的なものと位置付けている。

昭和五四年には、徳島大学布村元が、永田の発表を高く評価していたが、Ⅱ型遭遇後はそれとは知らずに苦しみ、のちⅡ型の存在を知らされ同時に永田発表の症例がもともと自然治癒する型のものであることを知つたと述懐している。

昭和五五、六年には、東北大学赤石英が、Ⅱ型の六症例に光凝固を実施したが全例失明したという国立小児病院の追試結果を指摘し、ワシントン大学ロバート・イー・カリーナが、光凝固法・冷凍凝固法が比較対照試験(コントロール・スタディ)を経ていないこと、治療例に自然治癒すべき症例が含まれていること、その他の理由により治療法としての価値が証明されていないと批判し、福岡大学大島健司が、自分の昭和四七年の論文は、いろいろ疑問もあつたが、これから始める者向けのガイドラインのつもりであつたし、その後従来の分類に該当しない症例が出現したのでこれを昭和四八、九年に発表したこと、永田の昭和四七年の二五症例の見解発表当時、未熟児網膜症の研究者間では、右症例が、いわゆる自然治癒傾向の強いⅠ型のもので、急激で必ず失明に至るⅡ型・混合型が含まれていないので、右見解をそのまま受け止めてはいけないという意見が多かつたこと、厚生省研究班では、自分と森実秀子が主体となりⅡ型の診断・治療基準を研究したが、遭遇例が極めて少なく基準を出せるわけはなかつたこと等を明らかにし、植村が、未熟児網膜症に対する光凝固法出現当時なされた早期発見、早期治療すれば全て治癒するといつたような報告は、その後の比較対照試験の結果、ほとんど自然治癒するⅠ型のものであるうえ、施術により永久瘢痕まで残すことが判明し、光凝固のⅡ型に対する治療成績の不良の議論もあつて、光凝固法・冷凍凝固法とも現在(昭和五六年)実験段階にあり有効性は立証されていないし、最近では視覚障害児の全例が光凝固法・冷凍凝固法を受けているとしており、永田が、Ⅱ型の治療には限界があるとしながらも、光凝固法はまだ陶汰されていないとし、田中純子もその有効性を認めたうえⅡ型・混合型では診断確定次第両眼に行つているとしているが、馬嶋昭生がⅠ型への光凝固法をいましめている。

昭和五七年には、久留米聖マリア病院未熟児センター橋本武夫が、一〇症例(Ⅱ型・混合型等)、日赤医療センター赤松洋が、八症例(前同)につきそれぞれ治療効果が上つたとはいえない追試結果を表明し、元国立小児病院眼科森実秀子が、未熟児網膜症に対する光凝固法が発表された当時の光凝固さえすれば治癒するという情報を早とちり的あるいは極論であるとし、当時は病型の分類さえ困難な時期であつたとし、永田らが、周産期管理により重症度を減少させなければならないこと、光凝固自体による視機能障害は殆んど起つていないこと、治療必要例の鑑別能力が向上してきたので不必要な治療例が減少し、光凝固例の絶対数は今後増加しないこと、Ⅱ型、混合型治療の可能性があること、光凝固法はなお重症例の治療に必要であること等を主張しており、植村が、米国と日本ではデータ上は生育率で差はないのに、失明率では日本が著しく高く、米国の失明児は光凝固を受けず、日本の失明児はこれを受けていることを指摘し、Ⅱ型は難治なものであるが、熟練した眼科医が光凝固を早期に、場合によつて繰り返し行い、あるいは硝子体手術を行つて目的を達する例もあるが、治療については未だ検討が続いている段階であるとしている。

昭和五八年には、永田が、当初の研究段階では比較対照試験(コントロール・スタディ)ということは思いつかなかつたし、その後追試報告が相次いで発表されている段階で自然治癒する症例と光凝固を必要とする症例との区別がつかず、過剰治療が行われていたことが推測されると述べている。

しかして、本件の発生した昭和四八年当時佐賀県内には、未熟児網膜症診断可能な眼科医は、国立嬉野病院眼科医酒井忠一名がいただけで、わずかに同医師が同病院、及び出張検診先の国立佐賀病院においてその診断を行つていたに過ぎない。そして、控訴人病院には眼科が併設されていなかつたし、当時佐賀市内の他の病院の眼科あるいは他の開業医と提携しようにも診断能力の点において全く期待できず、未熟児網膜症眼底検査のためには、国立嬉野病院、九州大学付属病院、久留米大学付属病院等との協力のもとに出張検診等の方法により未熟児の定期的眼底検査を行う医療態勢を整えるより仕方がなかつたとも一応はいえようが、実際上は国立佐賀病院の例を除けば、他にもこのような態勢は皆無で、しかも右のうち研究機関的病院であつても光凝固と連繋した病院は九州大学のみであり、当時、これらの病院に、控訴人病院と右のような連携医療態勢を組むだけの余力があつたとはとうてい考えられない。また、昭和四八年の本件発生当時、佐賀県内においては、光凝固装置を備えた病院は一箇所もなく、昭和四九年後半頃国立嬉野病院に始めて購入設備したもので、昭和四六年から右の設備がなされるまでは、光凝固のため二例が酒井忠医師の出身校である長崎大学医学部の付属病院に送られたのが実情であり、酒井忠医師も、自ら光凝固を始めたのは右の昭和四九年からであつて、しかも未熟児綱膜症に対する光凝固に疑問を持ちながら行つていたものである。もし、本件当時、他の病院において光凝固を実施するとすれば、九州大学付属病院のみであつて、現実には、控訴人病院と九州大学付属病院との間で連携が実現する可能性はなく、いずれにしても佐賀県内で光凝固法を実施する方途はなかつたものというべきである。

このように、わが国では、昭和四〇年頃から、未熟児網膜症のための定期眼底検査の必要性につき啓蒙的な注意喚起がなされ、それに伴い右検査が急速に普及し常例的になりつつあると一部で称せられていたにもかかわらず、現実には、未熟児に対するその試みは、本件発生の昭和四八年当時においては、先進的専門的研究者のいる病院、あるいは、研究機関的病院など未熟児網膜症に特別の関心を寄せる極めて一部の病院において実施されていたに過ぎず、個別的眼底検査の実施さえも十分に普及していなかつたのが実情であり、極端未熟児を除けば、未熟児に対する眼底検査の手技自体は一般眼科医にとつてもそれほど困難なことではなかつたとしても、右眼底検査による未熟児網膜症の発見、病態の分類、及びその臨床経過の正確な診断については、その病像の多様さの故に、多くの症例に遭遇する研究の場と機会を与えられ、実際多数の症例を観察した臨床経験と自発的に修練を積み重ね習得した熟練的技術とに裏打ちされた高度の能力を有するに至つた医師にして始めて可能といつた極めて困難な作業であつたので、右の必要性の認識の滲透とは裏腹に、本件発生の段階では、その能力を有する眼科医の数は、佐賀県内外は勿論、全国的にも(国公立病院を含めても)極く稀で、医学水準的にも未だ一般臨床眼科医が有すべき具体的可能性のある診断法にまで至つていなかつたものといわなければならない。また、未熟児網膜症の治療法としての光凝固法・冷凍凝固法等についても、本件発生の昭和四八年当時までに、やはり、先進的専門的研究者の一部の者により専門誌等で治療法として理論的に完成したと発表され、他の一部研究者から積極的肯定的評価を受け、奏効的追試例が相次いで報告され、そのかぎりで未熟児専門医の関心が高まり、かつ、一般的社会的関心すら持たれるようになり、同治療法の全国的規模での普及・実施態勢の確立が急務と叫ばれたものの、その有効性につき比較対照試験(コントロール・スタディ)を行うなどの学問的客観的証明過程を欠く等新治療法確立のためのいわゆる医療の常道を踏むことなく、右のような社会的要請の先行に伴つて直接的に一部先駆的医療機関への普及段階に入つた結果、病態病勢・治療適応等の診断基準、あるいは治療適期・治療方法(凝固部位・範囲・回数)等の治療基準についての課題の解決もなされず不統一のまま施術者独自の基準により、ことに真に治療を要する重症例と自然治癒傾向の強い治療不必要軽症例との区別もつかず、図らずもかなりの程度の過剰診療が行われてしまつたことさえ窺われるような実情にあつたものであり、そのうち治癒困難な激症例の出現を契機にひき起こされた混乱の中で、その解決のため、昭和四九年度厚生省報告により初めて未熟児網膜症の病勢分類、一応の診断・治療基準が示されたが、同報告によつてさえも右基準が真に妥当なものかどうかは今後の研究課題とされているのであつて、本件発生の段階では、光凝固法・冷凍凝固法は、未熟児網膜症の治療法として学問的な評価も定まらず、客観化され確立されていなかつたものといわなければならず、もとよりこれらが一般臨床医の間に定着していたものともいうことができない。なお、現段階でさえ、実際上、一部の者には、Ⅰ型のうち自然治癒傾向を示さない少数の重症例、異常な速度で進行し治癒困難なⅡ型、及び混合型の各症例に対して光凝固法等がある程度の有効性を有するものと信じられ、実施されてもいるが、不奏効例の報告も重なり、施術侵襲による永久的瘢痕の形成・手技的失敗によるとも推測される失明児の増加・過剰治療等の危険性を強調し、宿題報告等により警告を発し、疑問を投げかける専門的研究者も少なくはなく、いずれにしてもそれが治療法として実験研究の途上にあることを否定できない点で概ね一致しているものと思われ、一般的臨床医の具体的可能性のある治療法というにはほど遠い存在と考えられる。

してみれば、控訴人高岸が、被控訴人理一、同宏路の診療を担当した昭和四八年三月ないし六月当時は、佐賀県の内外を問わず、未熟児網膜症の診断・治療法としての眼底検査、光凝固法・冷凍凝固法の各施行は、未だいわゆる臨床医学の実践における一般的医療水準に達していなかつたものというべきである。

(5)  ところで、<証拠>によれば、控訴人高岸は、被控訴人理一、同宏路の以前、過去少くとも二回、未熟児網膜症により失明の恐れがある状態になつた控訴人病院元収容児二名の各保護者から、直接その事情を告げられ、そのうち一名の母権藤美知子からは、やや抗議めいた申入れを受けていたことが認められ、また、在胎二八週、生下時体重一〇〇〇グラムと一二一〇グラムの極小未熟児で、現実にしばしば呼吸停止、無呼吸発作を繰り返す呼吸障害の続いた被控訴人理一、同宏路の場合、たとえ酸素濃度四〇パーセント以下でも、未熟児網膜症発症とその重症化の蓋然性は否定できなかつたこと、被控訴人理一、同宏路が入院していた頃、控訴人病院の低体重出生児セソターでは収容児の酸素分圧(PaO2)の測定、及び眼底検査を行つておらず、同被控訴人らにつしてもそのような措置を講じていないこと、控訴人高岸が、同被控訴人らの入院中と退院時まで、同被控訴人らの眼や未熟児網膜症について何も説明せず、退院後の昭和四八年六月二三日になつて、初めて、被控訴人逸夫、同京子に対し、被控訴人理一、同宏路の眼科受診を指示したこと、右指示の結果、被控訴人理一、同宏路が佐賀市内の眼科開業医の診察を経て、同年七月四日久留米大学付属病院眼科中野正彬医師により、両名との両眼とも、未熟児網膜症のオーエンス活動期四期で、すでに手遅れである旨、また、同月一一日福岡市内香椎病院眼科大島健司医師により、同じく、未熟児網膜症が高度に進行し、視力回復の見込みが少ない旨、それぞれ診断され、その後、結局両名とも両眼を失明したこと、被控訴人理一、同宏路が、前示のようなその診療経過、未熟児網膜症の発症頻度、発生原因等に照らせば、Ⅱ型なし混合型であつた蓋然性が極めて高いというべきであるが、その場合でも、光凝固法等による治療の可能性が全くなかつたとまでは断定できないこと等は、前示のところより明らかであるところ、右のような諸事情の下で、なお、控訴人高岸が、単なる一般小児科医ではなく、なかば公的性格をもつ控訴人病院で、佐賀県内最大規模の低体重出生児センターの未熟児医療を専門的に担当する専任小児科医として、(専門誌等の文献その他により)、従来の酸素濃度四〇パーセント以下でも未熟児網膜症発症の危険がないとはいえず、特に生下時体重一六〇〇グラム以下、在胎三二週以前の未熟児の場合、その発症の可能性が大きく、したがつて、そのような症例については、未熟児網膜症の活動期病変を早期に発見し、管理するため、定期的眼底検査の必要がある旨指摘されていること、かつ、未熟児網膜症に対する治療手段として光凝固法等があり、これにより各地の医療機関で失明の防止に成功したとされ、したがつて、これらの治療法を施行する適期を逸しないために、定期的眼底検査を行う必要があると提唱されていること等についての知見を有すべき点を考慮に加えて見ても、前示のような未熟児網膜症についての当時の一般的医療水準に照らすならば、控訴人高岸につき、未熟児網膜症発症の危険がある低体重出生児につき、眼科医による定期的眼底検査を実施し、必要に応じ上級病院で光凝固法等の治療を受けさせるとか、あるいは、かりに専門眼科医が得られず、右眼底管理ができない場合、予めそれが可能な上級病院に転医させるべき注意義務の懈怠があつたなどとすることはできず、また、未熟児網膜症が失明の危険すらある重大な疾病であることにつき考慮を払えば、その保護者に対し、何らかの説明をなすことがより適切な措置であつたとはいい得ても、光凝固法等治療手段の状況を含め、未熟児網膜症の基本的事項を説明し、転医や治療の選択をする機会を与えるべき法的な注意義務の懈怠があつたとまではすることができない。

したがつて、右の一般的医療水準につき異なる見解を採り、控訴人高岸に右のような眼底検査実施・転医措置。説明(教示)の各注意義務違反があつたとする被控訴人らの主張は、同控訴人に難きを強いる結果となるものであつて、とうてい理由がないものというべきである。

しかして、前述のところよりすれば、これ以上詳論するまでもなく、控訴人連合会が、控訴人病院に低体重出生児センターを設置し、未熟児の保育をするにつき、眼科医との提携及び連絡態勢を整備し、必要とされる未熟児に対し早期に定期的な眼底検査を実施し、その結果に基づいて、さらに適切な措置をとれるようにすべき注意義務の懈怠があつたなどとすることができないことも明らかであり、また、右のとおり控訴人高岸につきその過失が否定される以上、控訴人連合会が控訴人高岸の使用者として被控訴人らの損害につき責任を負うべきいわれはなく、右の各点に関する被控訴人らの主張もまた理由がないものというべきである。

七 以上のとおりであるから、その余の点につき判断するまでもなく、被控訴人らの本訴請求(本人付帯控訴にかかる請求を含む。)は、いずれも理由がないものというべきである。

」と改める。

二よつて、本件控訴に基づき、右の結論を異にする原判決中控訴人ら敗訴部分を取り消し、被控訴人らの本訴請求を棄却し、かつ、本件付帯控訴を棄却すべく、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(美山和義 石井義明 江口寛志)

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